第1部 1年目 どん底で、考え方を変える 第2話
スタッフを業務委託にしたら、終わりでした
保険料と残業代が重い。だからアルバイトのマリさんを業務委託に切り替えた。変わったのは契約書の名前と、マリさんの手取りだけ。働き方は何も変わらなかった。


01 夜のバックヤード、請求書の束
42歳の春。閉店後のバックヤードで、僕は請求書の束を前に、電卓を叩いていました。社会保険料の納付書。薬剤の請求書。家賃の振込の控え。1枚めくるたびに、ため息が出ました。
一番重く見えたのは、人件費でした。マリさんはアルバイトで、週5日、朝から夕方まで入ってくれています。35歳、シングルマザー。腕がよく、お客様からの指名もありました。
ナオミさんは正社員で、和子さんはパート。2人の分は、何とか回っていました。でも、3人目のマリさんが週5日になって保険に入った月から、月末の残高が、いつも数万円しか残らなくなっていたのです。
その日、電卓に出た数字を見て、僕は思いつきました。「業務委託にすれば、保険料も残業代も、要らなくなるんじゃないか」。誰に聞いたわけでもありません。ただ、そう思い込んだのです。
ノートに、矢印を1本書きました。アルバイトから、業務委託へ。たったそれだけのことで、月の支払いが軽くなる気がして、その夜は少し眠れました。
電卓の前で、同じことを考えたことは、ありませんか?
矢印を1本書いただけで、楽になった気がした。
02 名前を変えても、中身は変わらない
先に、あとで分かったことを書いておきます。雇用か業務委託かは、契約書に何と書いてあるかでは決まりません。決めるのは、働き方の実態です。働き方が雇われている人と変わらなければ、紙に何と書いても、法律の上では雇用です。
つまり、矢印を1本引いても、マリさんの働き方が同じなら、何も変わっていない。変わったのは、店が払わなくなった保険料と残業代が、マリさんの負担に移ったこと。それだけでした。
しかも、あとから「本当は雇用だった」と判断されることがあります。そのときは、払っていなかった保険料と残業代を、さかのぼって払います。安くしたつもりの分が、何年分もまとめて、請求書になって戻ってくるのです。
2024年11月からは、フリーランス新法も始まっています。本当に業務委託で頼むなら、仕事の中身や報酬を書面で示す・60日以内に払う・やめるときは前もって伝える、といった決まりがあります。くわしくは、次の話で書きます。
業務委託という形は、安く済ませる道ではなく、決め事が増える道でした。僕はそれを知らないまま、翌日、マリさんに声をかけました。
変わったのは、保険料を払う人だけだった。
03 昼休み、「自由に働けるよ」

次の日の昼休み。休憩室で、コンビニの弁当を食べながら、僕は切り出しました。「マリさん、業務委託にしてみない? 自由に働けるよ。時間も、自分で決められる」。
マリさんは、お茶のカップを両手で持ったまま、少し間を置いて「…はい」と言いました。戸惑った顔だったと、今なら分かります。でも当時の僕には、うなずいたようにしか見えませんでした。
1週間後、契約書に名前を書いてもらいました。僕は横で「これで経費が減る」と、心の中でつぶやいていました。マリさんの手取りが、保険料の分だけ減ることは、計算していませんでした。
その契約書は、ネットで見つけた雛形の、名前と日付だけを変えた物でした。社会保険労務士にも、弁護士にも、見せていません。見せたら止められる気がして、見せなかったのだと、今は思います。
その夜、妻に話すと、妻は一言だけ聞きました。「マリさん、それで生活できるの?」。僕は「本人が納得してる」と答えました。納得していたのは、僕だけだったのに。
うなずいたのは、マリさんではなく、僕だった。
04 変わった物は3つ、変わらなかった物は5つ
契約書に名前を書いてもらった翌日から、マリさんは前とまったく同じ仕事をしました。同じ時間に来て、僕の指示でシャンプーをして、同じ時間に帰る。何が変わり、何が変わらなかったのか。表にすると、こうなります。

変わった物は、3つ。契約書の名前。店が払わなくなった保険料と残業代。そして、マリさんの手取り。変わらなかった物は、5つ。出勤する時間、仕事のやり方、使う薬剤、代わりの人、お客様から見た姿。
下の5つは、公的な物差しそのものです。働いている人が雇われている人かどうかを見るとき、国はこういう点を見ます。5つとも「店が決めている」なら、それは雇用です。僕は、全部を店で決めていました。
これを「名前だけ業務委託」と言います。安くなったのではありません。店が払うはずのお金を、マリさんに払わせていただけ。表にすれば1分で分かることを、僕は半年、見ないでいました。
安くしたのではなく、払わせていた。
05 更衣室のマリさんを、僕は見ていなかった

和子さんから聞いたのは、ずっとあとのことです。「あの頃、マリさん、閉店後に更衣室で、ひとりで座ってましたよ。子どもの写真を見て」。僕は、その姿を一度も見ていませんでした。
マリさんには、保育園の迎えがあり、家賃があり、毎月の保険料がありました。業務委託になって、その保険料を自分で払うことになった。手取りが減ったぶん、何を削ったのか。僕は、聞きもしませんでした。
5年たった今、僕が変えたのは、順番です。人の条件を変える話をする前に、紙に書く。「相手の手取りは、前と後でいくら変わるか」。それを書いてから、社会保険労務士に見せる。本人に話すのは、その後です。
この順番にしてから、スタッフの働き方を変えたことは、一度もありません。書いてみると、たいてい「変えないほうがいい」と分かるからです。
手取りを書くと、もう1つ分かります。本人の「はい」は、納得の印ではない、ということです。断れない立場の人は、どんな条件でも「はい」と言います。あの日の休憩室のマリさんが、そうでした。
話す前に、相手の手取りを書く。
06 今日やること:手取りの「前と後」を書く
今日やることは、1つだけです。もし業務委託にしたい人がいるなら、その人の手取りを「今」と「変えた後」で、紙に並べてください。 保険料を本人が払う分、残業代が出なくなる分を、引いてください。
並べた数字が減っていたら、それは経費を減らしたのではなく、その人の生活を減らしたということです。減った額を見て、それでも進めたいなら、話す前に社会保険労務士に相談してください。
僕はそれをせず、半年後、裁判所からの封筒を受け取ることになります。次の話は、1-3「裁判所から封筒。差出人は、元スタッフ」です。
減ったのは経費ではなく、人の生活だった。
情報元
- 労働者性の判断の物差し | 労働基準法研究会報告「労働基準法の『労働者』の判断基準について」(昭和60年)
- フリーランス新法 | 特定受託事業者に係る取引の適正化等に関する法律(2024年11月1日施行)・公正取引委員会/厚生労働省の解説
- 講座 第14回「家族のお金と資産運用のルール」「人件費は削る物ではなく設計する物」(講義ノートより)
※ この物語はフィクションです。数字は試算で、将来の結果を約束するものではありません(くわしくは「この連載について」)
働き方(雇用か業務委託か)は、契約の名前ではなく実態で判断されます。切り替えは社会保険労務士・弁護士にご相談ください。



