第1部 1年目 どん底で、考え方を変える 第3話
裁判所から封筒。差出人は、元スタッフ
マリさんが辞めて1か月。受付に白い封筒。名前だけ業務委託にした僕が、弁護士の前に座り、和解するまで。5つの物差しで答え合わせ。

01 朝の受付に、白い封筒
マリさんが店を辞めて、1か月がたった朝でした。受付のカウンターに、白い封筒が置いてありました。差出人は、裁判所。宛名は、僕の名前でした。
封を切る手が、少し震えました。中には、何枚もの紙。読み進めると、知っている名前が出てきました。マリさんです。半年前に、僕が「業務委託」に切り替えた、あのマリさんでした。
書いてあったのは、こういうことでした。働き方の実態は雇われている人と変わらないのに、名前だけ業務委託にしたのではないか。払われていない残業代と、入っていなかった社会保険の分を、求める。
僕は、その場に座り込みました。9時の予約のお客様が、もう入口に見えていました。
差出人は裁判所。宛名は、僕だった。
もしあなたの店に、同じ封筒が届いたら。あなたは、最初に誰に電話しますか?
02 「名前だけ業務委託」だと、何が起きるか
あとで知ったことを、先に書きます。業務委託か雇用かは、契約書の名前ではなく、働き方の実態で決まります。実態が「雇われている人」と同じなら、名前が何であれ、雇用として扱われます。
そうなると、どうなるか。払っていなかった残業代は、さかのぼって請求されます(請求できる期間は、法律で決まっています)。社会保険も、さかのぼって加入し、保険料をまとめて払うことになります。契約を打ち切っていれば、それは「解雇」として見られることもあります。
つまり、節約したつもりの保険料と残業代は、消えていなかった。あとから、まとめて請求書になって戻ってくる。しかも、利息のように、信用も一緒に失って。
僕はこのとき初めて、「安くする」ために人の働き方を変えることが、どれだけ高くつくかを知りました。
節約したつもりのお金は、消えていなかった。
03 弁護士の机の前で

その日の夜、僕は知り合いに頼んで、弁護士を紹介してもらいました。次の日、事務所の机の前に座り、封筒の中身を全部見せました。
弁護士は、契約書より先に、僕にこう聞きました。「マリさんは、シフトを断れましたか」「やり方は、誰が決めていましたか」「薬剤やハサミは、誰の物でしたか」。僕は、全部に「店です」「僕です」と答えました。
弁護士は、静かに言いました。「それなら、業務委託とは言えません。争うより、話し合いで決着したほうがいい」。
手続きは、労働審判というものでした。裁判所で、原則3回以内の話し合いで決着を目指す仕組みです。2回目の話し合いで、僕は和解しました。払っていなかった残業代と、さかのぼった保険料にあたる分を、払いました。金額は、ここには書きません。書けるのは、店の口座から、まとまったお金が出ていったこと。そして、僕がそれを「当然だ」と思えたことです。
話し合いの席で、マリさんは一度だけ、僕の目を見ました。何も言いませんでした。言わなくても、分かりました。マリさんには、子どもがいて、家賃があって、保育園の送り迎えがある。マリさんには、マリさんの生活があった。 僕は、それを「経費」としか見ていなかったのです。
僕は、人の生活を「経費」と呼んでいた。
04 5つの物差しで、答え合わせ
弁護士が僕に聞いた質問は、実は公的な物差しでした。働いている人が「雇われている人」かどうかを見る、いくつかの要素です。美容室の言葉に置き換えると、だいたいこの5つになります。

マリさんは、5つとも「雇われている人」の側でした。シフトは僕が決め、やり方は僕が指示し、店の薬剤を使い、代わりは立てられない。契約書の名前だけが「業務委託」だった。これを、名前だけ業務委託と言います。
もう1つ、知っておいてほしいことがあります。2024年11月から、フリーランス新法という法律が始まりました。本当に業務委託で仕事を頼むなら、仕事の内容・報酬・支払日を書面で示す。60日以内に払う。6か月以上続く契約をやめるときは、30日前に伝える。これが決まりになりました。
業務委託は、経費を減らす「抜け道」ではありません。きちんと決めることが増える、別の契約です。僕はそれを、封筒が届いてから知りました。
業務委託は、抜け道ではなく、別の契約だった。
05 オーナーが、先にやっておくこと

和解のあと、僕は3つのことをしました。1つ目、スタッフ全員の働き方を5つの物差しで見直し、全員を雇用に戻した。2つ目、契約書と労働条件通知書を、社会保険労務士と一緒に作り直した。3つ目、月に1回、スタッフと話す場を作った。
契約書を作り直した日、ナオミさんが言いました。「初めて、自分の休みの決まりを読みました」。和子さんは「パートでも有給があるんですね」と笑いました。僕は、8年も店をやっていて、スタッフに一度も「決まり」を渡していなかったのです。
そして、楊さんに言われた言葉を、ノートの最初のページに書きました。「人件費は、削る物ではなく、設計する物だよ」。人を安く使う店に、人は残らない。人が残らない店に、お客様は来ない。順番は、逆だったのです。
この連載の「契約書」のページに、雇用契約書・業務委託契約書・5つの物差しの確認表の雛形を置いています。使う前に、必ず社会保険労務士か弁護士に見てもらってください。僕が払った授業料を、あなたが払う必要はありません。
人件費は、削る物ではなく、設計する物。
06 今日やること:5つの物差しで、1人ずつ○×
今日やることは、1つだけです。スタッフを1人ずつ思い浮かべて、5つの物差しで○×を付けてください。 断れるか。指示の細かさ。時間と場所。代わりを立てられるか。道具は誰の物か。
「雇われている人」の側に○が多い人は、契約の名前が何であれ、雇用として扱うのが安全です。もし業務委託の人がいて、×が並んだなら、今日のうちに社会保険労務士に電話してください。封筒が届く前に。
次の話は、1-4「恩師の『いい話』が、一番こわい」です。裁判が終わって、ほっとした夏に、もう1通の手紙が届きます。
封筒が届く前に、○×を付ける。
情報元
- 労働者性の判断要素 | 労働基準法研究会報告「労働基準法の『労働者』の判断基準について」(昭和60年12月19日)
- 未払賃金の請求期間 | 労働基準法115条・附則143条(2020年4月改正・当分の間3年)
- 労働審判 | 労働審判法(原則3回以内の期日で審理)
- フリーランス新法 | 特定受託事業者に係る取引の適正化等に関する法律(2024年11月1日施行)・公正取引委員会/厚生労働省の解説
- 講座 第14回「家族のお金と資産運用のルール」(講義ノートより)
※ この物語はフィクションです。数字は試算で、将来の結果を約束するものではありません(くわしくは「この連載について」)
働き方(雇用か業務委託か)は、契約の名前ではなく実態で判断されます。切り替えは社会保険労務士・弁護士にご相談ください。



