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この話は、三平の1年目の話です(全体の地図を見る →)

第1部 1年目 どん底で、考え方を変える 第6話

「生える」は、言ってはいけない言葉だった

美容室の売上だけでは無理だ。育毛剤の会社を作ろうとした僕は、楊さんと出会う。「生える、は言えないよ」。会社はできなかったが、つながりは残った。

美容室のバックヤード。ラベルのない小瓶とノート

01 「ハゲ薬でも作るか」が、本気になった冬

300万円が消えた年の冬。店の売上だけでは、穴は埋まらない。そう思った僕は、別の柱を探し始めました。思いついたのは、育毛剤でした。

店の売上は、月に170万円ほど。300万円を埋めるには、2か月分の売上を、経費ゼロで出す計算です。無理です。だから、店とは別の売上が要ると思ったのです。

僕は、お客様に自分の頭を指して「そろそろハゲ薬が要りますね」と笑わせるのが、口ぐせでした。40代の男性のお客様は、カットの最後に、ほとんどの方が頭頂部を気にします。その悩みに応える物を、自分の店で売れないか。

知り合いの経営者に相談すると、「育毛剤の会社を作るなら、楊さんに会っておけ」と言われました。経営者に投資の考え方を教えている人で、会計にもとても強いと。僕は、事業計画を書いたノートを持って、喫茶店へ行きました。

僕の計画の一番上には、こう書いてありました。「生える育毛剤」。これを言って売れば、美容室の売上の何倍にもなる。そう、本気で思っていました。

あなたの店のメニュー表やインスタに、「言ってはいけない言葉」は、ありませんか?

「生える」と言えば、売れると思っていた。

02 「生える」と言えるのは、薬だけ

薬機法という法律があります。医薬品、医薬部外品、化粧品。髪に使う物は、この3つのどれかに分けられ、それぞれ「言っていいこと」の範囲が決まっています。

いわゆる育毛剤は、多くが医薬部外品です。言えるのは、抜け毛の予防や、頭皮を整えるといった、国が認めた範囲の言い方まで。「生える」「発毛する」とはっきり言えるのは、国が医薬品として認めた物だけです。

認められていない効能をうたって売ると、法律違反です。罰則の対象で、売上に応じた課徴金の仕組みもあります。知らなかった、は通りません。会社を作る前に、僕の計画の一番上の行は、すでにアウトでした。

これは、育毛剤だけの話ではありません。美容室のメニューにも、同じ決まり(薬機法と景品表示法)がかかります。「白髪が治る」「髪が生える」「痩せる」。お客様が喜ぶ言葉ほど、言えない言葉であることが多いのです。

お客様が喜ぶ言葉ほど、言えない言葉。

03 楊さんは、計画の1行目で、ノートを閉じた

喫茶店のテーブル。ノートに向かう2人の手元とコーヒー

楊さんは、僕より少し年上の、静かな人でした。ノートを開いて、1行目を見て、閉じました。「三平さん。生える、は言えないよ」。怒るでもなく、笑うでもなく、ただ、そう言いました。

「育毛剤で言えるのは、抜け毛の予防まで。生える、と言っていいのは薬だけ。これを言って売ったら、会社ができる前に終わる」。僕は、食い下がりました。「でも、言わないと売れません」。楊さんは、うなずきました。「そう。だから、売る前に、言っていいことを知っておく。商売の最初の決まりはこれだよ」。

それから楊さんは、計画の話をしませんでした。代わりに、聞きました。「その会社のお金、どこから出すの?」。僕は「借ります」と答えました。「今の店の、売上と利益と現金。3つ、言える?」。僕は、売上しか言えませんでした。

楊さんは、コーヒーを飲んでから言いました。「頑張っているけれど貧乏な経営者が、一番多い。三平さんは、今そこにいる。新しい会社の前に、今の店の数字から始めよう」。育毛剤の話は、その日で終わりました。

計画の1行目で、ノートは閉じられた。

04 言っていい言葉は、物によって決まっている

その日、楊さんが紙ナプキンに書いてくれた表を、僕は今も持っています。きれいに描き直すと、こうなります。

言っていい言葉は、物によって決まっている:化粧品=清潔に保つ・健やかに保つ/医薬部外品(育毛剤)=抜け毛の予防・育毛など国が認めた範囲の言い方だけ/医薬品=発毛(治療)。「生える」と言えるのは医薬品だけ

一番上の化粧品は、清潔に保つ・健やかに保つ、まで。真ん中の医薬部外品、いわゆる育毛剤は、抜け毛の予防・育毛など、国が認めた範囲の言い方だけ。一番下の医薬品だけが、発毛、つまり「生える」の世界です。

僕が売ろうとしていたのは真ん中の物で、言おうとしていたのは一番下の言葉でした。段を1つ間違えるだけで、違反です。この表を知らずに会社を作っていたら、どうなっていたか。想像すると、今でも背中が冷えます。

楊さんの教えは、この日は1つだけでした。売る前に、言っていいことを知る。投資の話も、銘柄の話も、1つも出ませんでした。あとで知ったのですが、楊さんは金融商品を売らない人で、銘柄をすすめることも、しない人でした。

段が1つ違うだけで、違反になる。

05 会社は、できなかった。つながりは、残った

白いカウンターで、メニューの札を書き直す男の後ろ姿

育毛剤の会社は、かたちになりませんでした。言える言葉が「予防」までなら、僕が思い描いた売り方は成り立たない。そして楊さんの質問に答えられなかった僕に、別の会社を持つ資格は、まだありませんでした。

帰って妻に話すと、妻は一言でした。「会社を作る前に、まず店でしょ」。楊さんと、同じことを言われました。僕の「ハゲ薬」は、お蔵入りになりました。

代わりに、僕が変えたのは、店の言葉です。メニュー表と、インスタの投稿を、全部読み直しました。「髪質が治る」「白髪が消える」。効果を言い切る言葉を消して、「整える」「ケアする」に書き換えました。

そして、楊さんとのつながりは、残りました。楊さんは、経営者に投資の考え方を教える人です。金融商品を売らず、銘柄をすすめず、会計にとても強い。のちに僕は、楊さんを勝手に「バフェット先生」と呼ぶようになります(バフェット本人とは、何の関係もありません)。その理由は、1年目の終わりに書きます。

あの日の喫茶店から、僕は月に1回、楊さんに会いに行くようになりました。持っていくのは、事業計画ではなく、店の通帳です。

会社はできなかった。先生は、できた。

06 今日やること:メニュー表から「言い切り」を1つ探す

今日やることは、1つだけです。店のメニュー表か、インスタの投稿を1つ開いて、「治る」「生える」「痩せる」「消える」のような、効果を言い切る言葉を探してください。 1つ見つかったら、「整える」「ケアする」に直します。

売る物が化粧品なのか、医薬部外品なのか、箱の裏の区分を見るだけでも、言える範囲は分かります。迷ったら、薬事に詳しい行政書士か弁護士に聞いてください。僕は、会社を作る前に聞けて、運がよかった。

次の話は、1-7「黒字なのに現金がない。理由、言えますか?」です。楊さんの「売上と利益と現金、3つ言える?」に、僕が答えられるようになるまでの話です。

言い切る言葉を1つ、「整える」に直す。

情報元

  • 医薬品医療機器等法(薬機法) | 医薬品・医薬部外品・化粧品の区分と、承認されていない効能の広告の禁止(厚生労働省の解説)
  • 講座(講義ノートより)「頑張っているけれど貧乏な経営者が一番多い」

※ この物語はフィクションです。数字は試算で、将来の結果を約束するものではありません(くわしくは「この連載について」)
育毛剤・医薬品の区分の話は一般的な整理で、特定の商品を指すものではありません。