第4部 4年目 要らんことせんの投資 第2話
要らんことせん。それが僕の投資術
ハサミを持つ手で、値段は追えない。公園のベンチで楊さんが福岡弁で言った「要らんことせん。入れて、持っとくだけ」。僕が決めた3つの約束と、消したアプリの話。

01 午後3時、ハサミを持ったままポケットが震えた
4年目の2月。平日の午後3時、僕はお客様の襟足を切っていました。隣では塚ちゃんがシャンプーをしています。ポケットの中で、スマホが震えました。
前の週に入れたばかりの、ニュースのアプリでした。「株価、急落」。画面を見たのは、次のお客様のカラーの放置時間、40分後です。その頃には、もう別の見出しに変わっていました。
僕は、その日、気づきました。朝8時半に店を開けて、夜9時に閉める。昼ごはんは立ったまま。その間、僕の手にはずっとハサミかコームがある。値段を見る時間は、1日に1分もない。見たところで、上がった時にどうすればいいのかも、下がった時にどうすればいいのかも、分からない。
「寝かせて生む投資」が何かは、前の話で分かっていました。でも、具体的に何をして、何をしなければいいのか。それが、まだ分かっていませんでした。
ハサミを持つ手で、値段は追えない。
あなたは今日、何分、スマホで値段を見られますか?
02 もし僕が「要ること」をしたら、何が起きるか
楊さんに聞く前に、もし僕が値段を追いかけたら何が起きるか、講座のノートで確かめました。
まず、素人は上がったら買い、下がったら売る(講座 第2回)。急落の見出しを見て、怖くなって売る。上がった見出しを見て、乗り遅れまいと買う。これを繰り返すと、高く買って安く売ることになります。
次に、数字の罠。100万円が50%下がって50万円になると、元に戻すには、50万円を100%増やさなければなりません(講座 第1回)。下がった時に売ると、この「戻す力」ごと手放すことになります。
そして、プロの話。選んで売買する投資信託の約8割は、長い期間で見ると、何もしない市場の平均に負けていました(講座 第4・5回)。1日中、値段を見ているプロが、です。ハサミを握っている僕が、勝てるはずがありません。
つまり、僕が「何かをする」たびに、間違える機会が1つ増える。楊さんが講座の第10回で言った「人間の判断を減らす」は、この意味でした。判断が増えれば、間違いも増える。店では、判断が多いほど腕が上がる。投資では、逆でした。
店では判断が腕を上げ、投資では判断が傷を増やす。
03 公園のベンチで、楊さんが福岡弁になった

定休日の午後、楊さんと公園のベンチに座りました。僕は聞きました。「寝かせて生む投資は、分かりました。でも、何を、どうすればいいんですか」。
楊さんは、大事なことを言う時だけ、福岡弁になります。「要らんことせん。入れて、持っとくだけ」。僕は聞き返しました。「それだけ、ですか」。楊さんはうなずきました。「それだけ。市場の平均を買う。たくさんの会社を、まとめて買うようなもんよ。どの会社が勝つか、当てんでよか。平均点を取る」。
「株は兵隊。1人の兵隊に賭けるんやなくて、軍隊ごと持つ。1人が倒れても、軍隊は進む」。講座の第5回で聞いた話が、ベンチの上で、やっと自分の話になりました。
「三平さんは、ハサミを握っとけばよか。お金は、お金で働かせる。ただね」。楊さんは少し間を置きました。「要らんことせん、が一番難しい。人間は、何かしたくなるけん。投資は始めるより、続けるほうが難しい」。
僕は聞きました。「何かしたくなったら、どうすれば」。楊さんは笑いました。「髪を切りなさい。お客さんの」。
「要らんことせん」が、いちばん難しい。
04 3つの約束で、答え合わせ
家に帰って、楊さんの福岡弁を、僕の言葉に置き換えました。決めたのは、やることではなく、やらないことです。

1つ目、入れたら、見ない。値段を見るのは年に1回。見るほど、いじりたくなるからです。2つ目、下がっても、売らない。半分になった年があっても持ち続け、先に入れるお金も止めない。売った時だけ、損が決まります。3つ目、増えても、いじらない。上がったからと一気に足さない。流行の物に乗り換えない。
この3つに共通するのは、「市場の平均を買って、持ち続ける」という1本の線です。講座の第5回で楊さんは、市場の平均のことを「平均点」と呼びました。平均点を取るのは、簡単そうで、難しい。周りが満点を取ったと騒ぐ日に、平均点のままでいる勇気が要るからです。
ここで1つ、はっきり書いておきます。市場の平均も、下がる年があります。何年も戻らなかった時期もあります。「要らんことせん」は、下がらない約束ではなく、下がった時に慌てない約束です。
やることより先に、やらないことを3つ。
05 スマホから、値段のアプリを消した

翌朝、スマホから株価のニュースのアプリを消しました。入れてから、10日目でした。値段を見るのは年に1回、大晦日の発表会の日だけと決め、ノートの最初のページに書きました。
妻にも頼みました。「もし僕が『売りたい』と言い出したら、止めてほしい」。妻は「何もしないって言ったのに?」と笑ってから、「分かった。止める」と言いました。自分の判断を減らすには、自分以外の人に、止める役を頼むのがいちばんでした。
店で塚ちゃんに話すと、こう言われました。「先生、それ、何もしてないのと同じじゃないですか」。僕は答えました。「そう。何もしないのが仕事」。塚ちゃんはきょとんとしていました。3年前の僕なら、同じ顔をしていたと思います。
ただ、この時点で僕はまだ、1円も入れていません。やり方は決まった。でもその前に、知っておきたいことがありました。年金はこの先どうなるのか。円だけで持っていて大丈夫なのか。それを確かめてからでも、遅くないと思ったのです。
何もしないのが、仕事になった。
06 今日やること:「値段を見る回数」を先に決める
今日やることは、1つだけです。お金の値段を見る回数を、先に決めてください。 まだ何も始めていなくて構いません。「年に1回」「月に1回」、どちらでもいい。決めたら、ノートか冷蔵庫に書いてください。
回数を決めずに始めると、見るたびに何かしたくなります。僕は10日でアプリを消しました。回数を先に決めるのは、我慢ではなく、仕組みです。仕組みがあれば、ハサミを握ったままでも続けられます。
次の話は、4-3「年金だけで老後。本気で言ってますか?」です。入れる前に確かめたかった1つ目、年金の公的な数字を、僕が読んだ話です。
我慢ではなく、仕組みで続ける。
情報元
- 講座 第1回「退場しないこと」(50%下がると戻すのに100%要る)・第2回「素人は上がったら買い、下がったら売る」・第4・5回「アクティブ型の約8割は指数に負ける」「インデックス=市場の平均点」「株は兵隊」・第10回「人間の判断を減らす」「投資は始めるより続けるほうが難しい」(講義ノートより)
※ この物語はフィクションです。数字は試算で、将来の結果を約束するものではありません(くわしくは「この連載について」)



