第5部 5年目 回して、つなぐ 第8話
この店を一番欲しい人は、目の前にいた
塚ちゃんが差し出した開業の見積もり。「これ、大変すぎますね」。新しく店を持つ平均985万円と、お客様も帳簿も分かっているこの店。一番欲しい人は、目の前にいた。

01 閉店後、塚ちゃんが差し出した1枚の紙
冬の初め、閉店後の店でした。塚ちゃんが、折り畳んだ紙を僕に差し出しました。「開業の見積もり、自分で作ってみたんです」。
紙には、物件の敷金、内装、椅子とシャンプー台、薬剤の初期在庫、広告、そして半年分の運転資金。合計の欄の数字を、塚ちゃんは指で隠していました。「これ、全部借りるんですよね。俺、貯金ほとんどないんで」。
塚ちゃんは28歳。1年目にマリさんの後に入ってきて、腕も人柄も、今では店の柱です。婚約者がいて、来年には結婚したいと言っていました。その塚ちゃんが、紙を見ながら、小さな声で言いました。「これ、大変すぎますね」。
僕は、その紙をしばらく見ていました。そして気づきました。妻と引いた線の上の、空いていた答えが、目の前に座っている。
紙の上になかった答えが、目の前に座っていた。
あなたの店を、一番欲しいと思う人は、誰ですか?
02 新しく店を持つとは、何をゼロから背負うことか
日本政策金融公庫の2024年度の調査では、開業費用の平均は985万円、中央値は580万円です。4割以上の人が500万円未満で開業していますが、資金の65%は金融機関からの借入で、自己資金は平均293万円でした。美容室だけの数字ではありませんが、塚ちゃんの紙の合計と、桁は同じでした。
お金だけではありません。新しく店を持つということは、お客様をゼロから集め、売上を予想で組み、スタッフを募集して育て、経費の相場を初めて知り、存続のための判断を全部1人でする、ということです。同じ調査では、開業して1年前後の月商が100万円未満の店が40%ありました。
社員の頃は、会社が守ってくれていました。休んでも、病気をしても、給料は出る。オーナーになった日から、その守りは消えます。僕が42歳で知ったことを、塚ちゃんは28歳で、紙の上で知ろうとしていました。
僕は塚ちゃんに、資金とは、経営とは、集客とは、セールスとは、存続とは何かを、1つずつ話しました。脅すためではありません。「雇われのまま終わりたくない」と言う塚ちゃんの夢を、潰さずに叶える道を、僕も探していたからです。
開業とは、お客様も売上も判断も、ゼロから背負うこと。
03 ラーメン屋のカウンターで、言ってみた

その週、僕は塚ちゃんをラーメン屋に誘いました。カウンターに並んで、湯気の向こうで、僕は言ってみました。「塚ちゃん。新しく店を作るんじゃなくて、この店を継がないか」。
塚ちゃんは、箸を止めました。「え、三平さんの店を、ですか」。僕は頷いて、続けました。お客様は、もう顔も予約の間隔も分かっている。売上も経費も、5年分の実績がある。ナオミさんも和子さんもいる。内装も椅子も、そのまま使える。塚ちゃんの紙に書いてあった項目の、ほとんどが要らなくなる。
「でも、三平さんはどうするんですか」。僕は、春に倒れたこと、妻の「どうしろと?」、糸島で見たキャンピングカー、そして紙に引いた線の話をしました。「僕は、店を手放したい。塚ちゃんは、店を持ちたい。それなら、同じ店で、両方が叶う」。
塚ちゃんは、しばらく黙っていました。それから「それ、俺が一番、得じゃないですか」と言いました。僕は「そう。だから言ってる」と答えました。
僕は手放したい。塚ちゃんは持ちたい。同じ店で、両方が叶う。
04 「新しく持つ」と「継ぐ」を、並べてみた
家に帰って、僕は塚ちゃんの紙と、僕の店を並べた表を作りました。項目は、塚ちゃんが一番不安がっていた6つです。

開業のお金。新しく持てば平均985万円、中央値でも580万円。継ぐなら、払うのは店の値段だけで、内装も道具もある。借入。平均780万円を新しく背負うか、売上から返す形を考えるか。お客様。ゼロから集めるか、すでに来ている人を引き継ぐか。売上と経費。予想か、実績か。スタッフ。募集して育てるか、今いる2人と続けるか。存続。全部1人で初めてやるか、分からないことを僕に聞けるか。
並べてみて、僕のほうが驚きました。塚ちゃんにとって、この店は「一番リスクの少ない、夢の叶え方」でした。そして僕にとっても、一番欲しがってくれる相手に渡すことが、一番いい終わらせ方でした。
楊さんの言葉を思い出しました。「ビジネスは集中、投資は分散」。新しい店を1つ増やすより、今ある店を次の人に集中して渡す。塚ちゃんの夢と、僕の線の上の旅は、同じ1つの店の中にありました。
一番欲しがってくれる人に渡すのが、一番いい終わり方。
05 店の帳簿を、塚ちゃんに開いた

次の日の昼休み、僕は塚ちゃんに、店の帳簿を開きました。5年分の売上、経費、利益、現金。発表会で見せていた数字の、さらに奥まで。家賃の契約、薬剤の仕入れ先、借入の残り。隠すものは、もう何もありませんでした。
塚ちゃんは、1枚ずつめくりながら、何度も「へえ」と言いました。「経費って、こんなに細かいんですね」「この月、よく乗り切りましたね」。塚ちゃんの見ている数字は、もう「三平さんの店」ではなく「自分がやるかもしれない店」の数字でした。
僕が変えたのは、「渡す」と決める前に、「見せる」を先にしたことです。春に妻にやったことと、同じ順番です。見せて、相手が自分で判断する。僕が「継いでくれ」と頼むのではなく、塚ちゃんが「継ぎたい」と言うまで待つ。
1週間後、塚ちゃんが言いました。「婚約者に話したら、泣いて喜んでました。やらせてください」。ただ、問題が1つ残っていました。塚ちゃんには、店を買うお金がありません。
「渡す」と決める前に、「見せる」を先にする。
06 今日やること:店を一番欲しい人の名前を、1人書く
今日やることは、1つだけです。「この店を一番欲しい人は誰か」を考えて、名前を1人、紙に書いてください。 スタッフでも、知り合いの若い美容師でも、まだ会っていない誰かでもいい。
名前が書けたら、その人に何を見せれば「欲しい」と思ってもらえるかを、次に考えてください。たぶん答えは、帳簿です。見せられる帳簿があるかどうかが、店を「終わらせる店」と「渡せる店」に分けます。
次の話は、5-9「お金ゼロの塚ちゃんが、店を買えた仕組み」です。買うお金のない塚ちゃんに、僕が出した答えの話です。
店を一番欲しい人の名前を、1人、紙に書く。
情報元
- 開業費用 平均985万円・中央値580万円、500万円未満が4割以上、資金調達は金融機関等からの借入 平均780万円(65.2%)・自己資金 平均293万円(24.5%)、開業1年前後の月商100万円未満が40.2% | 日本政策金融公庫総合研究所「2024年度新規開業実態調査」(2024年11月公表・調査時点2024年8月・開業後1年以内の企業・全業種)
- 講座 第13回「ビジネスは集中、投資は分散」(講義ノートより)
※ この物語はフィクションです。数字は試算で、将来の結果を約束するものではありません(くわしくは「この連載について」)



